穂高岳山荘

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記念エッセイ審査結果発表

結果発表にあたって

100周年記念エッセイ公募企画への多数のご応募、誠にありがとうございました。

当初の予定より、結果の発表が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。

本コンテストの審査員は以下の通りです。
審査員長 谷山宏典(執筆・編集業/「穂高に遊ぶ 穂高岳山荘二代目今田英雄の経営哲学」著者)
審査員 今田恵(穂高岳山荘 代表取締役)
審査員 中林裕二(穂高岳山荘 取締役支配人)

なお、入選者の皆様へは、穂高岳山荘より改めてメールにてご連絡いたします。

穂高岳山荘が次の100年も、人生の中で大切な時間のひとときを、皆様とともにすることができれば幸いです。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

審査結果

審査結果 応募名 作品タイトル
最優秀 西川崚まちがいの先に見えたもの
優秀 審査員特別賞 矢口夏山と出会った日
優秀 わだつばさ過去と未来の穂高
優秀 北風はやと小さな悪戯
優秀 高見章仁信じられない場所から信じられる場所へ
入選 花咲香あこがれの頂へ
入選 佐々木シュン岩稜の上のパワースポット
入選 山端穂高いつも心は穂高にありて
入選 佐治重衡お風呂
入選 榮豪2度も私を救ってくれた安らぎの場
入選 natsuわたしの地図
入選 長沢澄雄半世紀前の白出沢エピソード

※最優秀および優秀作品には、審査員選評を付記しております。

受賞作品

最優秀

まちがいの先に見えたもの

西川崚

 穂高岳山荘について何か書こうと思った時、僕は四人の学生を思い出しました。標高三千メートル、奥穂高岳と涸沢岳の間の、わずかな隙間に位置する穂高岳山荘から見た夕焼けに、心打たれていた学生たちを。

 僕は夕陽を見るのが好きです。一日の終わりを告げ、どこか儚く哀しげな空気を残して、次のまちに旅立っていく太陽を見るのが好きです。

 特に北アルプスの日の入りは格別なものだと思っています。大げさではなく、本当に一秒ごとに表情を変えていく太陽や空を見ていると、時間が過ぎるのがあっという間のように感じます。

 もう少し見ていたいという微かな願いもむなしく、地の果てに沈んでいく太陽を見ながら、柄にもなく、こんな風に僕も決して立ち止まることなく、流れゆく時の中で、いつの日か消え去っていくのだろうな、と考えたりもします。

 僕はそういう風に日常からそっと離れて、なんとも言えないやさしい気持ちになりながら、静かに山での時間を過ごすのが好きで、そのためによく山に行きます。

 九月上旬、僕は穂高岳山荘にいました。そして、例によって穂高岳山荘の「夕焼け劇場」から夕陽を眺めていました。

 その日の西側の空には厚い雲が漂っていて、夕陽が見れるかどうか怪しいところだったのですが、いざ日の入り二十分前となったころ、その雲たちがさぁーっと開いて、針でちょんと刺したら、内包された赤みがすべて溶けだしていくのではないかと思うほどの、ゆらゆらと燃え盛る太陽が顔を出しました。

 その日の夕陽は本当に美しく、さっきまで厚くはっていた雲が西の空に散らばって陽の光を受けながら、まるで紅潮しているかのような様子も耽美的でした。

 日の入り時刻の一時間以上前からスタンバイしていた僕は、自分もこの景色の一片になったような気がして、そこから動くことができずにいました。

 完全に陽が沈み、ほとんどの宿泊客が自室に戻っていく中、どこかの誰かにとっての朝に旅立っていった太陽が、かすかに溶け残った空と、闇の匂いを漂わせながら滔々と迫りくる漆黒の空のせめぎ合いを見ながら僕はまだ「夕焼け劇場」から動けずにいました。

 そんな時、穂高岳山荘の表側から四人の学生たちがやってきたのです。彼らは夕食の時間が遅かったのか夕陽を見れていない様子でした。

 僕は太陽が沈んで闇に染まっていく空を見るのも好きなので、彼らも同士なのかなと思い、会話に耳を傾けていると、四人のうちの一人が、穂高岳山荘の西側の目の前にそびえる笠ヶ岳を指さして、一言、

「ってことは、あれが富士山か」

 と言いました。

 ん??? 富士山???

 僕の頭がその言葉を飲み込み切らないうちに、もう一人が、さっき太陽が沈んでいった方の、まだ赤みが残る空を指さして、

「ってことは、あっちが南側か」

 ん??? 南???

 いや、ついさっきそこに太陽沈みましたよね? まだそっち側だけ夕陽の余韻残ってますよね?

 夕焼け劇場の石垣の上に一人佇み、感傷に浸りながら、生きること、死ぬこと、将来のこと、過去のこと、今のこと、友人のこと、家族のこと、いろんなことに想いを馳せてやさしい気持ちになっていた僕は、彼らのでたらめな内容の会話を聞いて、なんだか興醒めしてしまった気分でした。

「君たちが富士山だと思っているのは笠ヶ岳で、南だと思っているのは西だよ!」

 と興醒めの鬱憤晴らしのように彼らにそう言おうとしたその時、また別の一人が、

「人生で一番の景色だな」

 と言いました。そして、それに続いてもう一人が、

「努力ってやっぱり何かの形になって返ってくるよな」

 と言いました。

 僕は彼らの発言を訂正しようとした自分を恥じました。確かに彼らの言っていることは正確ではないけれど、彼らは彼らにとっての「富士山」を見て、彼らにとっての「南」を見つめていたのです。そしてそれは彼らにとっての一番の景色で、努力が報われた形だったのです。そこに誰も口をはさむ余地はないし、彼らの世界を邪魔する権利などないのです。

 山は素敵です。山は、山に来るすべての人を受け入れ、いろんな表情を見せてくれます。ただ、山は時に残酷でもあります。今年も多くの人が山で遭難し、亡くなりました。私も一か月ほど前に女性が滑落した現場を通りました。彼女は何を思って山に来て、そしてどんな思いで落ちていったのだろうかと考えたりもしました。

 ただ、山を登りに来ただけなのに、その場所を、空気を味わいに来ただけなのに。

 山が抱える楽しく美しいコトと厳しく悲しいコトのコントラストが強いことは確かです。

 ただ、だからこそ、山は人を惹きつけるのかもしれません。笠ヶ岳と富士山を間違うことや、西と南を間違うこと、日常ではまず考えられない間違いをして、そして、その世界の中で心動かされる。それが、生涯忘れることのできない思い出となる。そんな世界を創り出してくれるのが山なのかもしれません。

 そんなことを考えた、九月上旬の穂高岳山荘での出来事でした。

選評:同じ風景を目の前にしても、想うこと、感じることは、人によってさまざまです。9月上旬のある日、穂高岳山荘の「夕焼け劇場」で、西の空に沈む夕陽を眺めていた西川さんと、日没から少し遅れてやってきた4人の学生たちもそうでした。
学生たちの「考えられないまちがい」に対して、西川さんははじめ「興醒めの鬱憤晴らし」から訂正しようとしますが、彼らが発したある言葉を聞き、思いとどまります。西川さんが「まちがいの先に見えた」という気づきは、審査をした私たちも「たしかにそうだよなぁ」と共感し、納得させられるものでした。
この作品で描かれているのは、ある日の「夕焼け劇場」でのほんのわずかな時間の出来事です。その中に、西川さんの夕陽への想いや、学生たちの笑ってしまうようなまちがいとまっすぐで清々しい言葉、そしてそれを耳にした西川さんの心の動きが凝縮され、展開も心地よく、楽しくも深く考えさせられる濃密な一篇でした。


優秀 審査員特別賞

山と出会った日

矢口夏

世界に色が付く。
月並みな表現だが、一番しっくりくる。

もしもこの風景に値札が付いたとして、高価なものになったら、
私はやっとその素晴らしさを知るのだろう。

それくらいに、目に映る風景に、感動や価値を見出したことがなかった。

体中をその空気でいっぱいにしたいほどの澄んだ酸素と、
魚になって泳ぎたいと思うほどの美しい水、
真っ直ぐ空に伸びる力強い木々と、
隙間からの木漏れ日、
切り取って貼り付けたくなるような青空を、
私は人生で初めて、この身体で体感した。

今まで経験したことのない山道、
岩場を進み、進むにつれ、湿っていく空気。
自分を信じないと登れないような崖を必死に登る。

どうして私はこんなに辛いことをしているのだろうと、
足が重たくなるにつれて考える。
息が上がり、呼吸が荒くなる。
強い風が吹き、まだ雪の残る山道には死さえ過る。
上空で大きな音を立てる救助ヘリが、更に緊張感を煽った。

全身を伝うのは、汗か湿気か。
泣き出しそうになる気持ちを抑え、岩を掴む指に力を込める。

山荘につくと、まるで雲を掴めるような錯覚と、
天空に城でも建てられるのではないかという非現実さがあった。

まさか、人生で初めての登山が、こんなに辛いなんて。
そして、この山を登れる度胸とポテンシャルがあったなんて。
まずはここまで来た自分を抱きしめたかった。

天候はあいにくで、景色は見えず、
とにかく白くまとわりつく湿気が早く小屋に入れと急かしているようだった。

まるで、異世界。
老若男女問わず、国籍もバラバラな人たちが集まり、暖をとる。

目が合ったおじさまが声をかけてくれた。
「よく登るの?」
「いいえ。人生で初めて登山なんです。」
というと驚いた顔をした。
「穂高が初めてなの? すごいね、ここ登っちゃったらどこでも登れるよ。楽しかった?」
「楽しかったかと言われると、即答はできないです。でもきっと、また登ると思います。
登ってるときはあんなに辛いと思ってたのに、登れちゃってみると、なんか、次はもっとリュック軽くできるな、とか、体をもっといいコンディションにできるな、とか、
途中のヒュッテで美味しいご飯食べたいな、とか考えちゃって。」
「そっか、じゃあまた会えるね、山登り続けてたら、ここで会った人とはいつか必ず会えるから。」
なんて素敵な世界だろう。

次の日の朝、ロビーで顔を合わせると、昨日のおじさまは
「またね。」と笑った。
私も、「またどこかで。」と手を振った。

帰りも変わらず天候は悪く、強く風が吹いていた。
私の足取りは軽く、昨日あんなに怖かったのが嘘かのように軽快に下りていく。

そうだ、この岩、昨日も踏んだ。
支えてくれてありがとう。
踏みしめる一歩に、生きているという重みを感じる。

人はいつだって、死と隣り合わせに生きてる。
それを知っているから、ここにいる人は皆、優しく、強い。

私はきっと、山登りにはまって登り続けることはないだろう。
それでも今日登ったことで得たことは大きい。
変わらず明日はやってくるし、しばらくはこの固い靴に足を入れることもない。

でも帰ったら、地元の山でも登ってみようか。
沸々と湧き上がる高揚感は、登った時の胸いっぱいに広がる何とも言えない感情を知ってしまったからだ。

そう思ったとき、もう私は山の素晴らしさに足を踏み入れてしまったのだと思った。
その素敵な出会いをくれた穂高岳山荘に、感謝をしている。
わたしと穂高岳山荘は、人生で一番綺麗な風景を書き残している。

選評:矢口さんがなぜ人生初の登山で穂高をめざしたのか。誰と、どんなルートから登ったのか。具体的なことはあまり描かれていません。けれども、山の清澄な空気や美しい水の流れ、力強く伸びる木々、急峻な岩場など、作中に点描的に描かれたひとつひとつの風景や自然の事物を目にして、実際に触れることで、矢口さんが全身で山を感じ、まさに「山と出会った」んだなということは確かに伝わってきました。そして、その出会いは、矢口さんにとっての世界のあり方を一変させるほどの鮮烈な経験であったということも。
自身の内面や周囲の風景を描く文章の巧みさはもちろん、「山の素晴らしさに足を踏み入れてしまった」という矢口さんのこれからにエールを送りたく、審査員特別賞に選出させていただきました。


優秀

過去と未来の穂高

わだつばさ

 昨年、息子が産まれた。息子の名前は穂高。彼が産まれる随分前から、名前はこれに決めていた。美しく凛とした穂高連峰のように、人生の様々な局面を、喜びをもって生きて欲しいと願って名付けた。

 カモシカの立場に腰を下ろして、迫り来るような山肌を眺めていると、空がいつもより、近くなったように感じる。記憶に残る山の光景は数多あるが、日常の中で、時折フッと思い出すのは、決まってその光景だ。あの圧倒的な光景に出会いたくて、幾度となくここへ来ている。

 だが、私がこうやって、ありがたいことに何度も穂高岳を登ることができるのは、穂高岳山荘の存在があるからだ。重太郎新道から前穂高、奥穂高を経て急な岩場を下降すると、突如現れる山小屋。二十代の頃からもう幾度も同じルートを通って来ているのに、小屋が見えると心底安心するのはいつも同じ。小屋に到着した途端、この場所で過ごす、午後から翌朝までの楽しい時間を想像してわくわくしてしまう。

 とりわけ思い出深い滞在がある。その日、私はいつになく緊張していた。翌日、自分としては初めてのルート、ジャンダルムから西穂高までの縦走を計画していたからだ。小屋に着くと、女性用の大部屋に通された。私は単独だったので、荷物を整理したあとは他にすることもなく、明日の行程についてボーッと考えていた。と、同室の女性が話しかけてくれた。陽気な中年の女性で、今までの山の経験とか、お子さんの話なんかを聞かせてくれた。私達は一気に打ち解けた。その間も続々と、泊まり客が部屋に入って来る。そしてその女性の明るさと、山がもたらす高揚感のためか、何と、この部屋の全員が修学旅行生のように仲良しになってしまったのだ。学生から、七十代の方までが、まるで一つのパーティーのように和気あいあいとしていた。

 その日は長雨が明けた、九月の連休だった。泊まり客の誰かが言った。
「何だか山小屋のスタッフさんも、今日は大盛況だから、皆すごい笑顔でしたよ」

 私達は笑った。鬱々とした悪天候が過ぎ去った待ちに待った登山日和、私達も全く同じ気分だったからだ。

 その後も素晴らしい一日だった。食堂で、即席の宴会仲間に加えてもらったり、夜は星の下で、同室の方と遅くまで語り合ったり。初秋の連休、二つの布団に三人が眠る程混雑していたが、穂高岳山荘のその一夜は、大の大人の私達にとって、童心にかえったように楽しく、その窮屈さも全く気にならなかった。

 そして翌日の夜明け、肩のザックと、まとわりつくような眠気を背負って小屋を発った。徐々に朝陽が射し込んでくる。眼前にはジャンダムのシルエットが見えた。その時は誰とも話さなかったが、皆同じことを思っていたかもしれない。この場所に立っている自分は、幸せだと。

 その数年後には、テントを担ぎ、夫と奥穂高に登った。穂高岳山荘のテント場で眺めた朝を告げる太陽の姿。忘れ難い思い出だ。

 あれからまた時が過ぎ、私達家族は三人になった。息子が成長したら、親に付き合って、一緒に穂高を登ってくれるだろうか? その時は、またこの山小屋に泊まって、息子に彼の名前の由来を話そう。

選評:昨年生まれた息子に「穂高」と名付けたこと。かつて奥穂からジャンダルム、西穂へと縦走したとき、同室の女性たちと過ごしたひとときが、緊張していた自分の気持ちを和ませてくれ、まるで「童心にかえったように」和気あいあいと楽しかったこと。いつかまた成長した息子を連れ、家族三人で穂高に登りたいと願っていること。「現在」から「過去」を振り返り、そして「未来」と向かっていく文章を読んでいると、わださんの人生の折々に穂高岳という山や穂高岳山荘が大きな存在としてあったことが伝わってきます。「この場所に立っている自分は幸せだ」という一文は、きっと多くの読み手も共感するのではないでしょうか。


優秀

小さな悪戯

北風はやと

 登山を始めたきっかけは20年前に遡る。20歳の時、アルバイト先のスポーツカフェで知り合った彼女の影響だった。ひとつ下の彼女は一風変わった山ガールで登頂の達成感や絶景を求めて登っているわけではなかった。景色は副産物だと常々こぼしていた。
 彼女が惚れこんでいたもの、それは岩峰や鞍部に付けられた名前、殊に横文字だった。ジャンダルム、ザイテングラート、大キレット、ピラミッドピーク、等々。彼女の談義が始まると長い。名前がかっこよすぎると、まるで推しのイケメンアイドルを語るように瞳を輝かせていた。
 もはや性癖だなとからかったこともある。彼女の熱気をおびた言葉に私はよく失笑したものだ。当時、高尾山すら登ったことがなかった私でも、彼女が前のめりで語る熱量を見れば、名称が醸すオーラというべきか空気をその一帯で吸う、それが至福の時で幸せだったことは伝わった。
 そういうわけだから、彼女の山行はかっこいい名称を検索することから始まり、見つけたが最後、何処へでも飛んで行った。

 享年30歳、彼女は交通事故で他界した。
 事故のひと月ほど前だった。西穂山荘から北穂まで縦走する山行に行ってきた彼女と私は横浜駅で待ち合わせ、居酒屋に行った。
 私は体質でビールが飲めないからレモンサワー。匂いも苦手で嗅ぐだけで酔ってしまう。クレームを入れても返ってくる言葉は「どんまい」の一言。彼女は気にせず、ビールを煽る人だった。おかげで彼女とのキスはいつも酵母の味がした。
 下山後のビールはさぞ美味しかったのだろう。彼女は上機嫌で宿泊した穂高岳山荘での悪戯を話してくれた。1階にある団欒室、太陽のロビーの壁に十円玉で傷を付けてきたらしい。私はその頃、丹沢の低山に登るようになっていたが、山荘に泊まったことはなかった。それでも非常識なことぐらいは理解できた。
「いいのかよ、バレたら怒られるやつでしょ?」
「いいの、1センチぐらいだから」
「大きさの問題じゃないって」
 あの会話は鮮明に覚えている。彼女のために弁解しておく。恐らく酔っぱらっていたのだと思う。彼女は良識ある人だ。ゴミや煙草をポイ捨する人間を唾棄し、山行では登山道に落ちているゴミ用に、マジックで『ゴミ』と雑に書いたスタッフバックを常備していたぐらいだったから。今思うとあの袋が懐かしくて堪らない。

 あれから早いもので10年が経った。私は40を超え、彼女が惚れこんだ横文字の聖地北アルプスはほとんど踏破している。ただ穂高岳山荘には寄れないでいた。基本テン泊ということもあったが、運悪く「ここに傷を付けた馬鹿たれは誰だ!」と山荘の親父が怒鳴る場面にでも居合わせたら、私ですと言ってしまいそうで、なんとなく、なんとなく足は遠かった。
 2023年、今年の盆も墓参りに行った。墓石はもちろん無言で、ただジャンダルムの名を力説する彼女を彷彿とさせた容量満タンなエネルギーが燦々と射していた。その夜、穂高岳山荘が100周年を迎えたことを知った。10年と100年の節目に、無性な縁を感じた。

 8月末日、一歩を踏み出す心持ちで穂高岳山荘に宿泊した。私は少しは登山の経験も増え、彼女が歩んだバリエーションルートも踏めるようになったが、一畳間での寝返りはまだまだド素人のまま。受付を済ませた午後の昼寝、何度も間仕切りのロールスクリーンを上げてしまい、隣の壮年男性に迷惑をかけてしまった。嫌な顔ひとつせず、大丈夫と笑ってくれたことは救いだった。
 夕飯後、太陽のロビー。私は寛ぐふりをしながら視線をめぐらした。彼女が付けたと言った傷を探した。Marumanというメーカーの山荘にやけに馴染んだ木製枠のクオーツ時計が掛かった焦げ茶の壁、通路側の柱、本棚や木机にも傷は無数にあった。私はだよなと呟き、ロビーをあとにした。初めから見つかるとは思っていなかった。具体的な箇所を聞いておけばよかったという後悔も、それは時計の針を10年戻すしか方法はないのだし、あとの祭り。
 しかし見つけられなくて良かったとも思う。もし発見でもしていたら、彼女の代わりに飲めないビールを飲んでしまったかもしれないし、そんな日には、酔った身体は間仕切りのロールスクリーンをより上げてしまっていたことだろう。

 穂高岳山荘には1泊の計画が連日の快晴に誘われ、連泊してしまった。初めて宿泊したが懐かしく感じた所為もある。下山日はあっという間にやってきた。ザックを抱えた5時の東雲。石畳テラスからの眺めは、これからの自身の10年が、山荘の100年が、素晴らしい朝日でありますようにと願わずにはいられない期待を孕む蕾のように見えてならなかった。

 山荘へ、私は頼みたい。願わくば彼女が刻んだ小さな悪戯を、開業して100年、多くの物語の中で刻まれた傷と共にいま暫く埋もれさせていてはくれないだろうか。

 10年後また来よう。私は自身と約束し、一度山荘を振り返ってから下山した。

選評:10年前に交通事故で亡くなったという山好きの彼女との思い出を胸に秘め、いまだ埋まらない喪失感を抱えながら、100周年を迎えた穂高岳山荘を訪れた北風さん。20年前の彼女との出会い、亡くなる1ヵ月前の居酒屋での「小さな悪戯」の告白、そして今年の夏に初めて穂高岳山荘へ宿泊したこと――10年ごとのそれぞれの場面場面が巧みなストーリーテリングで描かれていき、洗練された短編小説を読んだような読後感でした。文中の最後に語られた山荘への頼みごとからは、彼女の生きた証がこの世に少しでも残っていてほしいという北風さんの切実な願いが伝わってきて、胸にグッと来るものがありました。


優秀

信じられない場所から信じられる場所へ

高見章仁

 僕が初めて穂高岳山荘に行ったのは小学4年生の時です。3年生の時に家族で涸沢ヒュッテに行った時にテラスから見上げた先に人影がはるか上に見えたのがきっかけでした。

「あの場所までいってみたい!」とお父さんに言いました。お父さんはその時「ここまで来られたから、もっとしっかり歩けたら穂高岳山荘まで行けるよ。来年行ってみようか?」と言ってくれました。僕は嬉しかったです。

 涸沢から登る人はだんだん小さくなって、上まで行くと本当に小さく細くなって見えます。僕も行けるかな? もし行けたら、上はどんな感じになっているのかな? やっぱり見下ろすと怖いかな? と色々考えました。

 待ちに待った次の年、家族で奥穂高岳に挑戦しました。去年と同じ涸沢まで行って一泊して、次の日に穂高岳山荘をめざしました。涸沢から先は初めてです。大きな岩を見ながら、一歩一歩登っていきます。山登りをしていると、「僕はどうしてこの道を登っているのかな?」「きついな。足が疲れてきたな」とか、色々自分の心の中で思うことがあります。でも、登っている途中に、小さいけれど一生懸命に咲いている花を見たり、休憩して家族で色々おしゃべりしながら登っていくとマイナスな気持ちを忘れていたり、その気持ちを逆に力にできていたりします。そのことがとても不思議だなと思いました。気持ちって何だろう? どこからくるのかな。

 穂高岳山荘には5時間後くらいに到着しました。赤い屋根の山荘はなんだかとってもかっこよく見えました。細い場所にしっかり建っていて、なんだかすごいなと思いました。石畳もすごくきれいで、どうやってこんな風に作ったのかなと思いました。

 中に入ると、なんだかほっこりするような落ち着いた印象でしたが、夜になるとランプがついてストーブに炎が見えて、僕の言葉ではなんだかいい表せないくらい、レトロな感じがしました。お父さんが来た時と変わらないと言っていたので、この先また来ても変わらないでほしいなと思いました。

 前は見上げていただけだったけど、見上げた先にいる小さい人に僕はなりました。山荘から下は朝までいた涸沢が見えます。ここに立っていると僕自身はとてもちっぽけだなと思いました。

 山荘に到着し、少し休んでから奥穂高に登りました。山荘から出発してすぐの岩が急でびっくりしたけど、怖くなかったです。そこで僕は初めて雲の中に入りました。

 実感としては雲の中とは思わないけれど、雨が降っているわけでもないのに洋服やお母さんの髪の毛がびしょびしょになりました。雲の中は自分が思っていたふわふわの感じとはちがいました。無事に家族で奥穂高に登りきって山荘まで戻りました。山荘は夕飯の時間になっていました。山荘の明かりが見えたらとても安心できました。穂高岳山荘はそこにあるだけで安心できる場所です。おなかがペコペコだったので、ご飯がとてもおいしかったです。安心できる場所だけでなく、色々なものを満たしてくれる場所でもあります。普通に暮らしていると当たり前の水も山では大変貴重です。そして、その水は冷たくとってもおいしいです。この水も大変な思いをして僕の口に入っているのを知ると本当にありがたいし、当たり前ではないことなのだなと実感します。登ってきたのは僕だけど、いろんな人のおかげでここに居ることができるのだなと思いました。

 夕飯後、お兄ちゃんと本が沢山並んでいる部屋で本を読みました。マンガを読みました。知らない山の本が沢山あって、すごいなと思いました。夜になると風が強くなりました。部屋の中にいれてよかったなと思いました。

 穂高岳山荘は涸沢からは見えないので本当に存在するのか信じられなかったけど、自分の足で登って実際に自分の目で見て、そこで過ごすことができました。

 今、信じられない場所に僕は自分の足で立っている! 目をつぶってみると、あの夜の星空と背後の暖かい山荘の気配。目をつぶると僕はいつでもそこに一瞬でたどり着くことができる場所です。

選評:高見さんにとってはじめは「信じられない場所」だった穂高岳山荘は、そこまで自分の足で登り、自分の目で見て、実際に滞在することで「信じられる場所」へと変わり、「目をつぶるといつでもそこに一瞬でたどり着くことができる」ようになったそうです。「初めて穂高岳山荘に行ったのは小学校4年生のとき」とあるので、高見さんはきっと10歳ぐらいなのでしょう。文章からは、やわらかな感性で精いっぱいに穂高の自然や穂高岳山荘のことを感じて、表現しようとしていることがまっすぐに伝わってきます。「前は見上げてみていただけだったけど、見上げた先にいる小さい人にぼくはなりました」など、子供らしい素直で自然な表現も微笑ましかったです。


入選

あこがれの頂へ

花咲香

 一週間の仕事を終えた金曜日。何日も前から何度も出したり入れたりしてパッキングをした大きな赤いリュックを背負って竹橋から夜行バスに乗った。三年ぶりの上高地は雨が降っていた。この日のために買ったお気に入りのレインウェアを着込み、傘をさして歩きだす。初秋の梓川沿いには大好きな花たちが咲いているけど、雨は写真も撮れないほど土砂降りだ。登山道は川のようになっていた。

「今日って沢登りだっけ?」と笑いながら歩いているけど、実は期待と不安も一緒に詰まった十三キロのリュックが重くてつらい。

 ふと見ると、隣には人間にも雨にも全く動じないお猿さんがいた。

「しばらく一緒に歩こうか。」

 本谷橋から本格的な登山がはじまり、Sガレの右手の沢はすごい音を立てて濁流が流れていた。涸沢に着いたときはホッとしたが、靴の中まで雨が染みていた。テントはあきらめ、靴下も濡れてしまった不安を抱えながら、その日は涸沢ヒュッテに泊まることにした。

 明日も雨だったら、徳沢でテントを張ってソフトクリームでも食べようか。

 翌朝起きてみると星が出ていた。行けるんじゃないか? 期待で胸が躍る。急いでテントを張っていると涸沢カールになんと虹がかかった。

「わぁぁ! 虹だよ! 虹がかかってる!」

 虹のてっぺんにあるはずの穂高岳山荘は雲に隠れて見えない。今日はあそこまで行く。涸沢ヒュッテでレンタルした初めてのヘルメットはなんだかぎこちないけど、心にスイッチが入った気がした。アタックザックを背負って一時間遅れで歩きだすと青空が見えてきた。ところどころ紅葉したナナカマドに秋のはじまりを感じる。初めてのアルプスは三年前の涸沢。本で見たままの涸沢カールの紅葉は本当に美しくて感動した。

 あの日、父が「あそこがザイテングラートだよ」と教えてくれた。父と一緒に涸沢から見上げたザイテンはまさにとがった岩の塊で、とても登れる気がしなかった。そのザイテンが今、目の前にある。緊張よりわくわくが上回っていた。ストックをしまい、手足を使って三点支持でガシガシ登る。

「楽しい! 楽しいじゃないか!」

 今日は荷物も軽いから心も軽い。振り返れば、青空に前穂高岳が顔を見せている。ご機嫌でウキウキと登っていたら、ゴツン! せり出した岩に頭をぶつけて、ヘルメットの大切さも実感した。初めてのクサリ場も楽しい。岩場にひっそりと咲くイワギキョウや岩に書かれた「ホタカ小ヤ20分」の手書きの案内に励まされ、出発から約二時間。突然目の前に赤い屋根が現れた。テレビや山の雑誌で何度も見た穂高岳山荘。自分にはまだまだ遠い場所だと思っていたあこがれの山荘を目にした瞬間は、心にじんわりとこみ上げるものがあった。小屋で少し休憩して、奥穂高岳を目指す。初めての穂高は、想像以上に整備された登山道で驚いた。「もうすぐだよ」と言われた山頂への稜線は真っ白だったけど、もう感極まって涙と鼻水がとまらない。寒いし、雨も降ってきた。汗と涙と鼻水と共に到着した山頂には、立派な石の祠がたっていた。今思うとちゃんと祠で手を合わせてお参りしたのだろうか。胸がいっぱいで記憶がない。

 上高地からずっと雨だった。遠くてつらかった。でも自分の足でここまで来たんだ。山頂に立ってみたら、ジャンダルムはどっち?っていうくらい真っ白で何も見えなかったけど、今までで一番感動した山頂の景色だった。下が見えない分、高度感も感じることなく下山し、穂高岳山荘で食べたあったかい味噌ラーメンは3倍おいしかった。もう雨もふってないよ。

 さあ帰りはテントまで、パノラマコースで帰ろう。


入選

岩稜の上のパワースポット

佐々木シュン

「今年こそは憧れの北アルプスに登りたい!」
 そう思い立ち、〝日本一の紅葉〟を堪能するため、妻と秋の涸沢カールを訪れた。
 涸沢から見上げる穂高連峰の険しい岩稜帯、紅葉もピークを迎えるには少々早かったようだが、自然が作り出した険しくも美しい景色に心が躍った。
 しかし本当に心を動かされたのは、遥か見上げる稜線の上にポツンと見える穂高岳山荘だった。
 有名な山小屋なので存在は認知していたが、遠目ながら実物を目にすると、かなり険しい岩山の上に人間が作り上げた山小屋がある。
 私はそこに心惹かれた。
 涸沢でのテント泊が旅の目的だったが、急遽予定を変更し、稜線の上の穂高岳山荘まで登ることを決め、妻と共にザイテングラートへと向かった。
 終日晴れだったはずの天気予報に反し、土砂降りの雨に見舞われ、ただでさえキツい急登を秋の冷たい雨に濡れながら進んだ。
「涸沢でやめときゃよかったかな」
 少々の後悔が頭を過りつつ歩みを進め、疲労困憊の中、コースタイムから大幅に遅れたが、なんとか稜線まで到着できた。
 到着と同時に雨は止んだ。
 歴史を感じる穂高岳山荘の石畳の上に立ち、妻と共に進んできた涸沢方面に目を向けると、そこにブロッケン現象を見ることができた。
 なんという幸運か。
 穂高の雄大な自然が織りなす奇跡に感動させられ、同時に穂高岳山荘の存在に心の底から安心させられた。
 私は100年も前にわざわざこの険しい岩稜帯に山小屋を建てた先人達の意思を理解した。
 穂高を愛し、登山を愛した先人達は未来の私たちが安心して登山ができて、この景色を見られるようにと穂高岳山荘を建てたのだと思った。
「次にここに来る時は、もっとキツいコースにチャレンジしたい」
「明朝はジャンダルムにアタックする」
 先人達の強い思いによって建てられた山小屋には、山を強く愛する山屋が集うのか。
 パワーみなぎる山荘利用者達の会話を聞いていると、自分もまたここに帰ってきたいと強く思った。
 この先の100年も、そのまた100年先も変わらず穂高を愛する山屋達の憩いの場として穂高岳山荘には永く残り続けて欲しい。
 私事ではあるが、いつの日か子育てが落ち着いた時、また妻と共にこの稜線に戻ってきたい。
 欲を言えば、子供達と共に穂高に登れたら最高かな。
 そんな未来に憧れを抱きつつ、遥かなる穂高を思い続けている。


入選

いつも心は穂高にありて

山端穂高

 年に一度、穂高岳山荘を目指すことにしている。ところがコロナで断念。台風で上高地撤退。ある年は事情があり、別の山域へ。でも、たとえそのような年があったとしても、それが30年以上続くと、山荘に滞在する日数もそこそこになる。

 ある夏、穂高岳山荘に泊まり、翌朝、雲一つない道を、白出のコルから奥穂高岳山頂へと向かったときのこと。周りの山々を望みつつ、次第に高度を稼ぐ。槍の穂先を背にしてさらに道をつめれば、ついに祠のある奥穂高岳山頂。

 頂上から正面にジャンダルムを望み、すぐ左手下の西穂を見やりつつ、視線をずっと右に巡らして行けば、笠ヶ岳、黒部五郎、薬師、鷲羽、水晶岳。立山をちらりと見て、槍ヶ岳、ずっとむこうに後立山の山々、手前に北穂を経て、燕、大天井、常念へと戻り、蝶ヶ岳まで視線を戻すと、その向こうにはしばしば煙をはく浅間山、そして八ヶ岳も。もちろん前穂の向こうには、遠くに富士、南アルプスが。ついに視線はもとへと戻り、中央アルプス、御岳が見える。十分に展望を楽しんだら、3190+2m!?(北岳と同じか!)にある祠と展望盤に別れを告げて、頂上から穂高岳山荘へと引き返すことにする。

 でも今度は白出のコルから涸沢岳へと登り返す。小雨の中、奥穂に登ろうとする人々を今田英雄さんはおとめになり、涸沢岳ならと勧められていたことを思い出す。涸沢岳の展望もすばらしいのだ。眼下に穂高岳山荘の赤い屋根。もちろん正面は奥穂高岳。おそらく山荘の写真を撮るなら一番の構図だろう。

 そうかと思えば、涸沢からザイテングラートへ、ずっと雨の中をつめて登ったこともしばしばであった。ようやく山荘にたどり着いた時の安心感。一日中無展望であったが、一瞬晴れた夕方に、笠ヶ岳に沈む美しい夕日をのぞんだ記憶がいくつも。そんな夕べのひとときを過ごす太陽のロビー。年に限られた日しか過ごせないが、わたしのパラダイスだ!

 天気待ちでまるまる二日を山荘で過ごしたこともあった。雨の中を次々に登って来る人たちを見つつ、本棚の山の本にどれだけ助けられたことか。フィリピンで火山が噴火した年、不思議な赤さに染まった夕べ。小屋の裏でカメラを回していたのは宮田八郎さんであったろうか?

 いつしか穂高山荘での思い出だけではなく、自分の人生とも重なって行く。

 生まれた息子の体重がなんと3190グラム。ここまで穂高と関わるのだろうか。迷わず息子を「穂高」と名付ける。今は亡き山岳展望の専門家、田代博さんが歓声をあげてくださった。娘も「梓」。言うまでもない。そして小学生になった子供たちと山荘を訪ね、今田さんと話をする機会も与えられた。「大きくなったらバイトしてよ」とうれしいことを言われたことを今でも思い出す。なかなか実現はしていないが。

 こっそりと、ささやかに、自宅の電話番号は3190! 今度、車を手に入れる時には、ナンバーも3190にすることにしよう。

 はじめて山荘をたずねたのは27歳の時。少し遅いか。いつしか60を超えて、果たしてあと何度訪ねることができるだろうか。

 西穂までの道を一人で計画した年に、ねだったガイドブックに「いつも心は穂高にありて」と記して下さった今田さん。

「いつも心は穂高にありて!」

 今日も撮りためた穂高の写真をノートパソコンで見ている自分がいるのだ。


入選

お風呂

佐治重衡

 ここだけの秘密だが、穂高岳山荘にはお風呂がある。とはいえ、最近出た本(※)にも詳しく書いてあるので秘密でもないが……。

 ざっと40年間以上にわたり穂高岳山荘に通っているが、これまで2回、英雄さんが僕らをお風呂に入れてくれた。

 1回目は自分が小学生のとき。

 夏のある期間だけ開設される、山荘横の奥穂高夏山診療所の当番医として父が登ったときに、家族5人でついていった。3人兄弟で、長男の自分は小学校5年生だったと思う。標高3000mでお風呂に入れることの有り難さを、そのころの自分が理解していなかったのが悔やまれるが、診療所の日誌に「さじファミリーは、山荘の風呂に入れてもらえて、とても羨ましかった」と同行した学生さんが悲しそうに書いていたのは覚えている。

 自分が大学生になり、6年間は夏山診療所で医学生班員として過ごし、卒業後は診療所も含め、様々な時期に個人で奥穂に登ってきた。

 家庭を持ち、長男が7歳になったとき、初めて彼を連れて奥穂高岳へ登った。英雄さんに挨拶するととても喜んでくれて、山荘裏の発電機や風車、焼却炉など様々なものを長男に見せてくれた。少しゴミ拾いとゴミ燃やしの手伝いをさせて、お駄賃だといってスイカをごちそうになり、さらに風呂に入れと言う。焼却炉でがっちりゴミを燃やして、湯がたっぷりのお風呂が湧いていた。さすが英雄さんである。

 親子で入ったお風呂は、25年前の記憶を蘇らせた。「ああ、これがあのときのお風呂だったのか!」浴室の窓から見える笠ヶ岳に沈む夕陽はまぶしかった。

 自分の生きているうちに3回目があるのかはわからないが、長男もいつかこの世界一贅沢なお風呂に、子供と一緒に入れる日が来るといいなと思っている。

※『穂高に遊ぶ 穂高岳山荘二代目主人今田英雄の経営哲学』山と溪谷社刊 谷山宏典著


入選

2度も私を救ってくれた安らぎの場

榮豪

 それは私が初めて槍穂縦走をした時のこと。

 普段から休みの少ない私は、盆休みに京都から深夜バスに乗り上高地へ向かった。早朝に現地に着いた私は、憧れの北アルプス縦走に心躍らせ、若気の至りで上高地から槍ヶ岳までの約20㎞の道のりをペースも考えず、休みを取らず、一目散に山頂まで駆け上がるように登り切った。その日は直下の山小屋へ泊り、一杯だけビールを飲んで食事を取ったあと、翌日以降の行動を考えて早めに床に就いた。

 翌日、早朝から次の目的地、北穂高岳を目指し出発した。個人的に多少疲れは感じていたものの、この程度は当たり前と思っていた私は、キレットを含め緊張感のあるルートの縦走にむしろ喜びを感じていた。そして予定していたほぼ時間通りに北穂高岳に到着、当日宿泊予定だった山小屋にザックを下ろし、予想以上の素晴らしい景色を見ながら一気に喉にビールを注ぎ込んだ。予定通りにスケジュールをこなしていたこともあり、その時点で私自身の満足度はピークに達していた。そして、この時点で少し自信過剰になっていたであろう私は、前日のようにゆっくりと休息を取ることを軽視し、2杯、3杯とビールを飲み、他の宿泊者らと談笑し、夜更かしをしてしまったのである。

 明けて翌日、この日は奥穂高岳を踏んでから吊り尾根を通って前穂経由で上高地へ戻る、言わば、下山の日。早朝暗いうちに山小屋を出た私は自身の足取りが思い通りでないことに気付く。「明らかに昨日までと違う」。そう感じながらも昨日までと同様の気持ちで前進し続けた。予定表を見ると少しずつ遅れを取り、涸沢岳付近を通過する頃もペースが改善することはなかった。その先はほぼ惰性のような感じで足を進め、休憩予定地であった穂高岳山荘へやっとのことで着いたのである。そう、私にとって初めての穂高岳山荘、元々の予定では宿泊はおろか、30分の一時的休憩地に過ぎなかったこの山荘が、私を救ってくれることになる。

 予定では山荘内には入らず、山荘の前で行動食をかじりながら過ごすつもりだったが、予想以上に疲労困憊だった私は山荘の扉を開けた。扉の中は温度も雰囲気も暖かく、私はそこで行動食ではなく、早めの昼食を取った。それまでは疲れていて正確な判断ができなくなっていたが、胃袋を満たすことで改めて自身の状態を客観的に見直すことができた。私はそこで2時間の仮眠をすることにし、疲労の回復後は当初の予定よりも大幅に遅れて山荘をあとにした。その後、奥穂、前穂を経由し、岳沢へ下りた頃には日が沈みかけていた。そして宿に着くころには辺りは暗くなっていたが、道も迷わず、怪我も事故もなく宿にたどり着けたのは、穂高岳山荘での昼食と仮眠であることは間違いない。

 私の初めての槍穂縦走は、かなり痛い経験となったが、登山の慎重さと危険さを身に染みて感じる礎となった。その後、私は同じルートを2回縦走したが、いずれもこの経験をもとに計画を練り直し、問題なく達成している。

 

 時が経ち、複数回、槍穂を縦走し、精神的にも肉体的にも成長した私は次の北アルプス縦走の目標、西穂から槍を目指すことにした。そう、いよいよジャンダルムチャレンジである。例年のごとく盆休み集中型での縦走。初日は京都から新穂高ロープウェイまでバス利用、ロープウェイに乗って山頂駅から少し行った小屋で一泊。酒も控え、明日からの縦走に備えた。

 翌朝は3時過ぎに起床。当日は北穂高に宿泊予定だったため、4時に出発し、まずは西穂を目指した。スタート地点から降り続く雨が気になったが、暗いうちに稼いでおこうと思い、黙々といくつものピークを越えて行った。その間も一向に雨が止む気配はなく、間ノ岳を通過する頃には雷鳴も聞こえて来る悪天候となった。エスケープルートに乏しいこのコースはルート変更もままならないため、それでも進むしかなかった。そして、天狗のコルに着いた時に雷がすぐそばに迫り、ザックを下ろし、その場で30分以上足止めを食らうこととなった。

 天候が悪かったため、前後に登山者はいない。雷が遠ざかったのを機に、濡れて滑りやすくなった岩稜を一人再び歩き始めた。雨で濡れ鼠のようになった私は雷の恐怖感も重なって、精神的にも肉体的にも疲れ果て、ジャンダルムを踏んだ時も喜びよりも、その先に続くロバ耳や馬の背、ナイフリッジに対する恐怖感の方が大きくなっていた。そんな中、私は最大限の注意をしながら何とか奥穂まで登り切り、やっとゆっくり休憩することができた。その時真っ先に頭をよぎったのは「あと少しで温まれる場所、穂高岳山荘に辿り着ける」ということであった。休憩後、更に足を進め、下りの梯子の先に穂高岳山荘が見えた時には思わず涙が潤んできた。

 山荘へ到着後、私はすぐさま受付に向かい、「この先まで行く予定でしたが、天候不良のため、一晩休ませて下さい」と申し出た。すると「どちらからですか?」との質問。私が「西穂から来ました」と答えると、「今日そちらからいらしたのはあなたが最初です。そして恐らく、あなたが最後でしょう。本当にお疲れさまでした」とにこやかに迎え入れてくれた。

 かくして私の初めての穂高岳山荘宿泊となったのである。本来宿泊予定だった小屋へ宿泊キャンセルの連絡を入れ、私は冷え切った身体をストーブの前に持って行き温めた。そしてその日一日起こったことを振り返りながら、一番印象に残った光景を思い出し考えてみた。それは西穂山頂でも、ジャンダルムでも、切り立ったナイフリッジでもなく、下りの梯子の先に見えた穂高岳山荘であった。その後、私は夕食を取り、少し寛いだあと、泥のように眠りに落ちた。

 翌日、ゆっくりと目覚めた私は、予定していたルートを変更し、ザイテングラートより下山して温泉に向かい、事なきを得ることができた。

 こうして私は、2度にわたり穂高岳山荘に救われたのである。

 その後も私は登山を続けている。槍穂縦走や、西穂から槍縦走+小槍の登頂など、大好きな北アルプスは何度来ても感動を与えてくれる。穂高岳山荘に宿泊したのは前出の雨の縦走の時だけだったが、その後も前を通るたびにあの時の下りの梯子の先に見えた穂高岳山荘の光景が蘇る。

 私ももう56歳、この先、体力が落ちて行くだろう。近い将来、縦走もままならなくなるだろう。私は思う。その時が来たらゆっくりとこの山荘を目指し、山を登ろう。そして昔の思い出と共に数日間この山荘でゆっくりと過ごそう。それはきっと最高に贅沢な時間になると思っている今日この頃である。


入選

わたしの地図

natsu

 「一番思い出に残っている山行は?」と聞かれたら、わたしは迷いなく「2泊3日で涸沢ヒュッテと穂高岳山荘に泊まって、奥穂高岳に登ったこと!」と答えるだろう。本当だ。このエッセイのテーマに合わせて、大げさに言っているのでは断じてない。

 遡ること十数年前、20歳になったとき、なぜか「富士山に登ろう」と思い立った。それまでのわたしは、登山経験は皆無。幼いころ家族でよくキャンプに行っていたというような過去もない。山と言えば、富士山と高尾山しか知らなかったかもしれない。20歳になったのだから何か新しいことに一人で挑戦したいと思ったのだろうが、なぜ登山だったのか、いまだに謎である。しかし理由はどうであれ、ひょんなことから山登りを始め、「穂高」「涸沢」「上高地」という美しい名に出会うのに、そう時間はかからなかった。

 雑誌の写真を食い入るように見つめ、本当にこんな場所が日本にあるのかと、信じられなかった。行きたい。でもアルプスって、大変なんじゃないかな。でも行きたい。その気持ちの方が100倍大きい。初めてのアルプスは奥穂高岳に登ることに決めた! 同伴者として、わたしより体力があって長時間喋らなくても気まずくならない弟を勧誘。

 その時は2016年8月にやってきた。地図や雑誌やガイドブックを読みあさって予習してきた、真っ赤なモルゲンロートも、可憐なチングルマも、恐竜の背中のようなザイテングラートも、この目で見て、この足で歩くことができた。涸沢ヒュッテのデッキで、いつまでも穂高連峰に包まれていたかった。涸沢槍を見上げて、「ほう、あれがかの有名な槍ヶ岳か」なんて思ったのも忘れていない。吸い込まれるような青空に向かって、一歩一歩登って辿りついた穂高岳山荘。そこから奥穂高岳への、もうひと踏ん張り険しい道のり。そしてわたしたちは、奥穂高岳の山頂に立ったのだ。見渡す限りの山々に囲まれて、わたしはその中に一本の道を見た。その道は本物の槍ヶ岳に繋がっていた。あぁ、なんて広いんだろう。

 穂高岳山荘で過ごしたたったひとつの夜とひとつの朝は、何もないのに全てがある、この上なく豊かな時間だった。ごはん、夕焼け、一杯のコーヒー、読書、星空、日の出。食事をいただくこと。あたたかい小屋で眠ること。たった一度きりの景色を見て、今この瞬間に生きること。それがこんなにも幸せで、もうあるもので十分なのだということを教えてもらった。

 わたしは奥穂高岳の神様から「北アルプスの地図」を受け取った。その地図には、自分の足で歩いた道と、山で見たもの、心動かされたものが記されていく。さっそく上高地から奥穂高岳までの道のりに線を引き、穂高岳山荘で受け取った豊かさを綴って、大切に心にしまった。

 それから、まだ見ぬ世界を自分の地図に記すために、毎夏北アルプスに通っている。パノラマ銀座縦走、表銀座縦走、槍ヶ岳、立山、白馬岳、双六岳。少しずつ道が繋がってゆく。

 ある夏、蝶ヶ岳ヒュッテの夕暮れ時、ぼんやりと白い空を見ていたら、とつぜん雲の中から槍穂高連峰が姿を現し、遠く小さくたしかな光が見えた。あぁずっとそこに穂高岳山荘があるんだと、泣きそうになった。そんな忘れたくない景色や感情がふえてゆく。

 まだまだ出会いたい場所があるし、何度でも帰りたい場所がある。ゆっくり、この地図を広げていくことが、わたしの生きがいだ。

 しかし今年は、穂高以来初めて、北アルプスを訪れない夏だった。わたしのおなかに命が宿ったのだ。再び穂高を訪れるときは、夫とこの子と一緒に行こうとひそかに計画している。余談だが、子の名前候補に「穂高」が入っている。

 穂高岳山荘100周年、おめでとうございます。わたしの地図の始まりの場所へ、また必ず戻ります。


入選

半世紀前の白出沢エピソード

長沢澄雄

「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」と魯迅は記した。金華山の「めい想の小径」でこの名言板に遇ったのは、大阪万博の1970年、岐大に進学して間もない頃であった。

 翌年から、山荘に隣接した冬季避難小屋で、奥穂高夏山診療所の学生スタッフとして加わり、荷揚げや伝令等を始めた。ある日、白出沢の道を進んでいたところ、これまでのアルプス山行の登山道でも滅多になかった、実に歩き良い真新しい道を通った。やがてその先に道普請中の今田重太郎さんらの姿があった。

 白出沢の道を通る登山者は、ザイテングラートと呼ばれる上高地・涸沢経由の表道ルートに比べて多くない。しかし、麓から空輸できるものの、裏道とはいえ岐阜・高山からの近道であり、この道も山荘の生命線に変わりない。当時の山荘支配人、神憲明氏に測量を任せ、巻尺で測ったという『槍穂高連峰詳細図』(1973年・山荘発行)では、白出小屋から山荘まで4644mと読み取れる。更に彼は翌年、登山者葉書からも情報を得て、遭難予防・安全登山に欠かせないコースタイムを加えた改定版を地図会社より出している。

 この道で、支配人その人が半畳程の荷物を担ぎ上げているのを見かけたことがあった。中身は水越武氏の写真パネルで、山荘に展示するのだと言う。そして、彼の写真に自分はとても太刀打ちできないと評していた。それゆえ、仕事の合間に本格的な16ミリ映画フィルムを撮りためて、東京で音声を入れて作品化していたらしい。

 その頃、風車に興味を持ったので、岐阜市内の長良川河畔で高く舞い上がった手製凧を持参し、白出コルで凧揚げを試みた。しかし、予想外の乱気流で思ったようには揚がらなかった。

 当時は山荘の風力発電もいまだ軌道に乗っておらず、発動発電機音を交えて、毎晩の映画会を鑑賞した。神氏手ずからの労作上映に脱帽。

 映写心得があったので、晩秋の大学祭で学友らにそれらの16ミリフィルム作品を紹介したいと思い立った。それで希望を氏に伝えると快諾を得たばかりか、上映した『休日穂高岳』等のフィルム3巻を受け取りに、司町キャンパスまで足を運ばれて、ささやかな晩餐会に加わって下さった。

 そして、穂高岳山荘50周年祝賀会に招待された野澤生化学助教授(当時)より、名代参加という幸運が訪れた。

 1973(昭和48)年8月25日、祝賀会当日の朝、偶然、涸沢ヒュッテの食卓で同席した老夫婦も山荘へお祝いに行くという。「今井だと伝えてくれればわかる」とのこと。

 昨日からの雨が止み、10時半に友人と共に山荘に着いた。折り良く、重太郎・まき夫妻が出ておられたので挨拶後、夏山診療所(1958年~)のいきさつを聞くことができた。

 NHK取材中の重太郎さんと今井雄二・喜美子夫妻との出会いは実に感動的で、20年以上を経ての喜びの大きさが手に取るようにわかった。

 記念にと、重太郎さんに色紙をお願いしたところ、「山を愛する人は心もきれい」と書かれて届けられた。山案内人の背骨に裏打ちされた心の投影書だと、冬季小屋で見て腑に落ちた。

 1974年晩夏、重太郎さんが大切にしている駒草が、山荘近くにあるらしいと知り、是非見たいと願った。神氏に尋ねると、場所を秘して、代わりに駒草の写真を見せてもらった。写真の背景から、その場所は白出沢の一画と思われ、探しに行くと丹精された駒草が美しく咲いていた。

「一叢の 駒草咲きて 知る心」

 そこに偶々居合わせた環境庁パトロールの人と、自然保護が話題になった。その人は「自然教育は大人になってからでは遅い。子どもの時の教育が大切」と力説された。

 現在、この言葉を足がかりに、「あわらの自然を愛する会」会員として、故郷あわら市の国有林古道を巡って、子どもたちへの自然ガイド役を担いたいと模索している。